熊本地方裁判所 昭和60年(ワ)751号 判決 1992年10月19日
原告
堀川幸子
同
堀川雅子
同
堀川雅巳
右法定代理人親権者母
堀川幸子
原告ら訴訟代理人弁護士
山中靖夫
右訴訟復代理人弁護士
青山定聖
被告
前橋武
右訴訟代理人弁護士
川野次郎
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告堀川幸子に対し、金二七〇〇万円及びうち金二五〇〇万円に対する昭和五八年一月二七日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を、原告堀川雅子及び同堀川雅巳に対し、各金一三五〇万円及びうち金一二五〇万円に対する昭和五八年一月二七日から支払済に至るまで各年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 原告堀川幸子(以下、「幸子」という。)は、訴外亡堀川典臣(以下、「典臣」という。)の妻、原告堀川雅子は典臣の長女、原告堀川雅巳は典臣の長男である。
2 被告は、医師であり、肩書地において前橋医院(以下、「被告医院」という。)の名で、皮膚科、泌尿器科及び外科の医療業務を営んでいるものである。
3 本件事故の発生
(一) 典臣は、左右脇腹と臀部一帯に直径一センチメートル位の赤い発疹ができ、かゆみを覚え、かつ両足の水虫がくずれたような症状を呈してきた(以下、「本件症状」という。)ので、その治療のため、昭和五八年一月二六日午後五時四五分ころ、被告医院において被告より診療を受けた。
(二) 被告は、蕁麻疹であると診断し、同六時ころ、看護婦に注射液を指示して典臣に注射させたところ、典臣は容体に急変をきたし、同七時ころ、救急車で熊本赤十字病院に搬送された。
(三) 典臣は、熊本赤十字病院に搬送されたものの、その時点では既に意識はなく、血圧測定不能、脈拍触知不能、呼吸停止、瞳孔やや散大気味で生活反応は全くなく、手の施しようのない状態であり、同病院において、同八時四八分死亡が確認された。
4 被告の責任
(一) 典臣と被告との間で、昭和五八年一月二六日午後五時四五分ころ、典臣の本件症状に対する治療行為を内容とする準委任契約が成立した。
(二) 注射前の安全確認義務違反
(1) 被告が典臣に投与した注射剤を準備したのは、被告医院の看護婦訴外堤美代子(以下、「堤」という。)であるところ、堤は保健婦、助産婦、看護婦、准看護婦の資格を有していないのであって、被告が堤に診療の補助行為である注射の準備をさせたことは保健婦助産婦看護婦法上違法である。
(2) 被告が典臣に投与した注射剤は、被告の主張するデルマニンC20等ではなく、何か違う薬剤である可能性が極めて高い。
(3) 典臣の本件症状が水虫(真菌症)であるとすると、被告が典臣に注射したとするデキサンは全身の真菌症の患者には禁忌とされているものである。
(4) 典臣の本件症状が水虫でなく、被告に投与された薬剤がデルマニンC20及びデキサンであったとしても、グリチルリチン製剤であるデルマニンC20については、その使用説明書に、まれにショック症状があらわれることがある旨の記載があり、デサキンについては、その使用説明書に、「投与に際しては特に適応、症状を考慮し、他の治療法によって十分に治療効果が期待できる場合には、本剤を使用しないこと。」という記載があるのであるから、事前の問診を十分に行う義務があったにもかかわらず、被告は典臣に対して「肝臓は悪くないか。」などと尋ねたのみであって、右義務を怠った。
(三) 注射中の観察義務違反
被告は、注射中典臣の観察を注意深く行うべき義務があったにもかかわらず、被告は看護婦が典臣に対して注射をしている間、典臣のいる場所に背を向けて雑誌を見ていたのであって、右義務を怠っていた。
(四) 結果回避義務違反
被告は、典臣にショック症状が出現した後、直ちに、ノルアドレナリン等の血圧昇圧剤を投与し、気管切開をなすべき義務があったにもかかわらず、右義務を怠った。
(五) 典臣は、被告の右各義務違反によって、死亡するに至ったものであって、被告には、原告らに対し債務不履行または不法行為に基づき損害を賠償する責任がある。
5 典臣の損害
(一) 慰藉料 金二〇〇〇万円
(二) 逸失利益 金四五〇〇万円
典臣は、昭和一七年一二月一三日生まれ、学歴は大学中退で、本件事故当時四〇歳であったから、昭和五八年度の賃金センサス第一巻第一表全企業平均値により、短大卒、生活費控除四〇パーセントとして算出。
32万2100円(月収)×12(月)+130万1300円(賞与等)×14.643(ライプニッツ係数)×0.6
=4539万1835円≒4500万円
(三) 葬祭費 金八〇万円
(四) 幸子は、二分の一である金三二九〇万円の損害賠償請求権を、原告堀川雅子及び同堀川雅巳は各四分の一である各金一六四五万円の損害賠償請求権を相続により取得した。
6 弁護士費用
原告らは、被告に対し、示談交渉により損害賠償を求めてきたが、被告においてこれを賠償する意思が認められないので、原告らは止むを得ず、弁護士に本訴の提起を依頼したものであり、弁護士費用として、幸子については金二〇〇万円が、原告堀川雅子及び同堀川雅巳については各金一〇〇万円が相当である。
7 よって、幸子は、被告に対し、右損害賠償金三四九〇万円のうち金二七〇〇万円及びうち金二五〇〇万円に対する本件事故の翌日である昭和五八年一月二七日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、原告堀川雅子及び同堀川雅巳は、右各損害賠償金一七四五万円のうち各金一三五〇万円及びうち金一二五〇万円に対する本件事故の翌日である昭和五八年一月二七日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1及び2の各事実は認める。
2 請求原因3について
(一) (一)の事実は認める。
(二) (二)の事実のうち、被告が本件症状を蕁麻疹と診断したことは否認し、その余の事実は認める。
(三) (三)の事実のうち、典臣の死亡確認がなされた時刻は不知、その余の事実は認める。
3 請求原因4について
(一) (一)の事実は認める。
(二) (二)のうち、(1)、(3)及び(4)は争う。
(三) (三)及び(四)の事実は否認する。
(四) (五)は争う。
4 請求原因5の事実のうち、典臣が昭和一七年一二月一三日生まれで死亡当時四〇歳であったことは認め、その余の事実は不知、慰藉料の額は争う。
5 請求原因6のうち、原告らが被告に対し損害賠償の請求をし、被告がこれを拒絶したこと、原告らが本訴を原告代理人に委任したことは認めるが、その余は不知。
三 被告の主張
1 本件症状について
(一) 被告が診たところでは、典臣の背、側腹部、臀部、右下腿、左下腿及び左足背にかけて米粒大ないし蚕豆大の紅斑があり、全体的にかなり著明な発疹がみられた。
(二) 被告は、診断の始めに、典臣から水虫があるという訴えがあったことから、その部分の皮膚を少し切り取って、顕微鏡で検査したが、結果は陰性であった。
(三) そして、典臣が被告医院で治療を受けた時期は、一月二六日で一年で最も寒冷な時期であるから、特段の事情がない限り、水虫がこれほどの短期間で躯幹に拡大する可能性はない。
(四) したがって、本件症状は、水虫ではなく、湿疹性のものである。
2 被告が典臣に投与した薬剤の適応
(一) 被告が典臣に投与したデキサンの効能又は効果には湿疹、皮膚炎に適応であるとされ、デルマニンC20は、ステロイドと協調し、解毒、抗炎症、抗アレルギー作用を調整し著明な効果を表すものである。
(二) 本件において、被告が右各薬剤を投与したのは、病変がかなり広範囲であり、典臣が運送会社の運転手であったため、睡眠作用のない薬剤を選択する必要があったためである。また、デキサメタゾンについては内服薬もあるが、典臣が飲酒するため、その効果が期待しがたいため、デキサンを選択したのである。
(三) したがって、被告が典臣に投与した薬剤は本件症状に最適応のものであった。
3 被告が典臣に対して行った問診等
(一) 被告医院においては、患者受付窓口に、「お願い」として、「薬や注射などでショック、蕁麻疹、発疹などの副作用のあった方は必ず診察前にお申出下さい 熊本市医師会」と記載した張り紙を掲示していたが、典臣からは何の申出もなかった。
(二) 被告は、典臣が飲酒することから、アルコールが治療に影響を与えるであろうことを考え、これによる肝疾患の有無を質問し、肝の触診もしたが、異常は認められなかった。
(三) 更に、典臣に他の医院で行っている治療はないかと質問したところ、水虫の訴えがあったので、糸状菌検査を行ったが、検出しなかった。
(四) 被告は、右のような状況のもとで、典臣の過去には薬剤過敏の病歴はないものと判断して、デキサン及びデルマニンC20を投与したものであって、典臣が薬物過敏症にあたるかどうかを識別するに足りる十分な問診を行なったものである。
(五) 原告らは、堤の資格を問題とし、堤の注射準備行為を違法と主張するが、堤は注射を準備しただけであり、これを受け取った被告医院の准看護婦である訴外鍬農八重子(以下「鍬農」という。)がアンプルを確認して、典臣に注射したものであって、堤の行為は、医師の目が届く限度の場所で患者に危害の及ぶことがなく、かつ判断作用を加える余地の乏しい機械的な作業であるから、保健婦助産婦看護婦法に違反するものではない。
4 被告医院における典臣の注射後の症状(以下、「本件ショック」という。)に対する救急救命措置
(一) 被告が、鍬農に指示して、典臣に注射を開始したのは、昭和五八年一月二六日午後六時すぎころであった。被告医院の診察室はワンルーム方式をとっており、常に被告が診療行為を一望に見ることができるようになっているのであって、本件の場合でも、鍬農が典臣に注射を行っていたとき、被告はこれを直視していた。
(二) 典臣が鍬農に吐き気を訴えたとき、、被告は、鍬農の報告と同時に典臣のベッドサイドへ走り、典臣の一般状態の診察を行い、被告医院の看護婦に強心剤であるビタカンファと酸素吸入と点滴を指示し、看護婦らは被告の指示に従ってこれらの措置をとった。
(三) ややあって、典臣に急に嘔吐発作が起こり、苦悶状態を呈したため、被告は、直ちに看護婦に命じて典臣に対して強心剤、輸液、酸素吸入を実施したところ、一旦収まるかに思われた。しばらくして、典臣に再び激しい嘔吐発作が起こり、呼吸困難を訴えるとともに、ベッドの上で暴れるという興奮状態を呈したため、被告は、典臣の気道確保のために咽頭鏡をもって、典臣の舌根の挙上を試み、更にボスミンを点滴注射した。
(四) 被告が、電話で訴外川添、同緒方医師(以下、「川添医師」、「緒方医師」という。)に応援を依頼した。
(五) 同日午後六時一〇分ころから同一五分ころの間に、典臣は呼吸を停止し、次いで心停止が起こったため、被告は、直ちに看護婦と交代で、典臣の心マッサージ、酸素加圧吸入を行ったが、典臣は蘇生しなかった。更に、被告は、同日午後六時二〇分ころ、典臣の気管切開を行い、カテーテルを直接挿入して、酸素吸入と心マッサージを続行した。
(六) 同日午後六時二五分ころ、川添、緒方両医師が相次いで被告医院に到着し、両医師の協力のもと、被告は典臣に対して蘇生術を行ったが、結局蘇生できなかった。
(七) 同日午後六時三八分ころ、救急車が被告医院に到着したが、被告は川添、緒方両医師の協力のもとになお暫く典臣に対して蘇生術を行ったが、典臣は蘇生することなく、午後七時すぎ、被告も救急車に同乗して、典臣を熊本赤十字病院に搬送した。
5 典臣の死亡原因
原告らは、典臣の死亡原因を被告が投与したグリチルリチン製剤「デルマニンC20」、あるいは「デキサメタゾン」によるアナフィラキシーショックであると主張するが、典臣の死亡原因は、「デキサメタゾン」の添加剤であるポリオキシエチレン硬化ヒマシ油(HCO―60、以下、「HCO―60」という。)による中毒である。
6 本件症状の予見可能性
(一) 被告が典臣に投与した「デルマニンC20」及び「デキサメタゾン」は、その薬そのものには全く毒性はなかった。
(二) 「デルマニンC20」にはHCO―60は添加されておらず、「デキサン」にはHCO―60が添加されていたが、本件後である昭和六一年四月改訂の「デキサンの使用効能書」にHCO―60が含有されている旨の記載がなされたもので、本件当時は記載がなされていなかった。
(三) したがって、被告は、本件当時、デキサンにHCO―60が添加されている事実を全く知らなかったのであって、被告には本件症状に対する予見可能性は全くなかったというべきである。
7 結果回避可能性
(一) 被告の救急救命措置は前記4で述べたとおりであり、開業医としての医療水準に適応したものであって、被告には、典臣の死亡の結果を回避できなかったことについて過失はないというべきである。
(二) 原告らは、典臣に対して直ちに昇圧剤を投与すべきであったと主張するが、アドレナリンは極めて著しい昇圧作用を有していることから、患者の瞬間瞬間の状態をよく見極めてこれを使用しなければならないところ、本件の場合、典臣は、脈拍も正常であったし、血圧は一二〇位であったのであるから、このような場合に昇圧剤を投与することは絶対に禁忌である。
(三) 更に、原告らは、典臣に対して直ちに気管切開をすべきであったと主張するが、成書には、気管切開は「咽頭狭窄」以外には、救急救命措置として記載されていない。
第三 証拠<省略>
理由
一請求原因1及び2の各事実については当事者間に争いがない。
二典臣が死亡するに至った経緯
<書証番号略>、証人中村ヒロミ及び同鍬農八重子の各証言、原告堀川幸子本人尋問(但し、後記の措信できない部分を除く)及び被告本人尋問の各結果並びに当事者間に争いのない事実によれば、以下の各事実が認められ、これに反する原告堀川幸子本人の供述部分は採用できない。
1 典臣は、左右脇腹と臀部一帯に直径一センチメートル位の赤い発疹ができ、かゆみを覚え、かつ両足の水虫がくずれたような症状を呈してきたことから、その治療のため、昭和五八年一月二六日午後五時四五分ころ、被告医院を訪れ、被告より診察を受けた。
2 被告医院の患者受付窓口には「お願い」として、「薬や注射などでショック、蕁麻疹、発疹などの副作用のあった方は必ず診察前にお申出下さい 熊本県医師会」と記載した張り紙を掲示していたが、典臣及び幸子からは何の申出もなかった。
被告は、幸子から典臣が飲酒すると聞いたことから、肝臓疾患の有無を質問し、触診もしたが、異常は認められなかった。
典臣から水虫ではないかという訴えがあったことから、被告医院の看護婦訴外中村ヒロミ(以下、「中村」という。)が典臣の左足の皮膚の一部を採り、被告が検査したところ、陰性という結果であった。
3 被告が典臣を診察したところ、背部、側腹部、臀部、右下腿部に、米粒大から蚕豆大の紅斑が多数、左下腿部及び左足背部にかけてびまん性潮紅が、左足底に落屑がそれぞれ認められたことから、躯及び両下肢外因性皮膚炎と診断した。
4 そこで、被告は中村にコルデール軟膏を塗布するように指示し、中村は指示に従って、典臣の患部にこれを塗布した。
5 更に、被告は中村にデルマニンC20二〇ccとデキサン一mgを注射するよう指示し、これを受けて中村は、被告医院のワンルーム形式となっている診療室内にあるベッドに案内し、典臣をベッドの上に寝かせるとともに、鍬農及び堤に被告の右指示を伝えた。これを受けて、堤が注射の準備をして、同日午後六時ころ、鍬農が典臣に注射を開始したが、約三分の一注射したところで、典臣に吐き気が生じたため、鍬農は注射を中止し、診療室内にいた被告に指示を求めた。
6 被告は、ベッドのところに行き、典臣に質問し、脈をとり、血圧を測定したところ、血圧は一二〇程度あったが、間もなくして、典臣が吐き気を催したため、被告は、鍬農ら看護婦にビタカンファ(強心剤)の投与、酸素吸入、ハルトマン(点滴)の指示をするとともに、緒方、川添医院を呼ぶように指示した。
これを受けて、鍬農はビタカンファを典臣に注射し、更に、ベッドの横にあった酸素吸入器で、典臣に酸素吸入し、中村が緒方医師か川添医師のいずれかに電話連絡をとり、中村は被告医院の事務長某に他方への電話連絡を依頼した。
堤が点滴の準備をし、被告医院の看護婦訴外讃井が行った。
7 典臣の容体は暫くは落ち着いていたが、更に、激しい吐き気と呼吸困難を訴えるようになったため、被告は鍬農に指示して典臣にビタカンファを注射させ、酸素吸入器に代えて診察室内にあった蘇生器で酸素を供給したが、当初は、典臣に吐き気があったため、典臣の口から離した状態で使用した。
8 ところが、気道狭窄は認められないものの、典臣はますます呼吸困難の状態となり、ベッドの上で暴れる状態となり、脈も少し微弱になりかけていたため、ボスミン(昇圧剤)を投与したが、典臣は全身の痙攣と硬直を起こして心停止状態となった。
9 このため、被告は典臣に対し、心マッサージを実施し、更に、気管切開をして蘇生器により典臣に酸素を送るように試みた。このころ、川添、緒方両医師が被告医院に到着し、被告は両医師らとともに、心マッサージ、緒方医師が持参してきていた救命バッグによる酸素吸入等により典臣の蘇生を試みたが、蘇生できず、同日午後六時三二分に、救急車の出動を要請し、救急車は同日午後六時三八分に被告医院に到着した。
被告らは、救急車到着後も典臣に蘇生術を試みたが、典臣は蘇生せず、被告らが同乗して、同日午後七時二分被告医院を出発し、同日午後七時七分、熊本赤十字病院に搬送された。
10 熊本赤十字病院において、典臣に対して、人工呼吸、点滴確保、昇圧剤、強心剤等の施行がなされたが、典臣に反応はなく、同日午後八時四八分、典臣の死亡が確認された。
三典臣の死亡原因
1 <書証番号略>、証人濱六郎の証言並びに鑑定の結果によれば、以下の事実が認められる。
(一) 本件ショックのタイプ
(1) ショックとは、種々の起因による末梢循環不全に基づく組織、細胞の代謝障害をいうところ、本件のように、薬物によるショックには、大きく分けて、アナフィラキシー型ショックと過量、中毒型ショックがある。
アナフィラキシー型ショックでは、通常、発症の初期に、蕁麻疹や皮膚の紅潮、眼及び鼻粘膜の刺激症状(結膜充血、クシャミ、鼻閉など)、気道刺激症状(咳)、消化管刺激症状(嘔吐、腹痛、下痢など)、神経刺激症状(不安感、焦燥感、皮膚のピリピリする刺激感など)があり、その後、末梢の循環不全の主要症状である血圧低下、気道のアナフィラキシー症状である喘鳴・呼吸困難・チアノーゼなどを伴ってくる。
これに対して、過量、中毒型のショックの場合には、皮膚の掻痒感・蕁麻疹・紅潮・発赤、眼及び鼻粘膜の刺激症状、気道刺激症状、消化管刺激症状などの症状がなく、ショックを生じる前に、薬理学的、中毒学的にみて、多量(急速)に投与するとショックを生じる性質のある薬剤の投与がなされていることが前提となる。
(2) 本件ショックについては、以下の点からして、アナフィラキシー型ショックと認めるのが相当である。
① 本件において、被告が典臣に投与した薬剤は、グリチルリチン製剤であるデルマニンC20並びにデキサメタゾン及びHCO―60を含有するデキサンであるところ、右各薬剤には、薬剤そのものの性質として、人の通常の臨床使用の範囲内で血圧低下作用を有するものは含まれておらず、HCO―60やその類似化合物についてはアナフィラキシー型ショックを高頻度に生じさせることが、ビタミンK製剤及びセルフチゾンFにおける各症例によって報告されている。
② 前記二で認定した本件ショックの症状の経過によれば、強い呼吸抑制による呼吸困難があるが、気道閉塞の症状が認められなかったこと、他の症状に比して激しい嘔吐発作の症状があること、強い興奮状態が認められたこと、血圧低下がなかったこと、痙攣が認められたことなど、アナフィラキシー型ショックとしては非典型的な症状を示しているが、アナフィラキシー型ショックには、IgE抗体の関与したアレルギー反応によるものの他に、運動による振動等様々な発生機序によるものが含まれ、前記(1)で述べた典型的症状を示さない症例もあること、アナフィラキシー型ショックの発現臓器は極めて多彩であって、各臓器の反応には固体差が大きいこと、本件ショックの症状の経過は極めて急激なものであり、アナフィラキシー型ショック以外には本件ショックの症状が発現する原因を想定し得ない。
(二) 本件ショックの原因
(1) HCO―60を添加剤として含有するフィトナジオン注(ケイツー注)によるショック症状の頻度は、約四〇〇〇例中四例である。
(2) これに対して、アナフィラキシーショックの頻度が高い薬剤とされ、皮内反応テストが義務付けられている注射剤のペニシリン系抗生物質のショックの発生率は、0.5〜二万人に一人程度である。
(3) 本件で被告が典臣に投与したデルマニンC20ないしデキサンに含有されているデキサメタゾンについては、副作用として、ショックあるいは過敏症状があらわれることがあるので、観察を十分に行うこととされているにすぎず、これらによる副作用として発生するショックの頻度は、ペニシリン系抗生物質の頻度を上回ることはないと推認される。
(4) したがって、本件ショックの原因は、デキサンに含有されていたHCO―60であると認めるのが相当である。
2 以上によれば、典臣の死亡原因は、デキサンに含有されていたHCO―60によるアナフィラキシー型ショックによるものと認められる。
四請求原因4について(被告の責任)
1 (一)の事実(治療行為を目的とする準委任契約の成立)については当事者間に争いがない。
2 (二)(注射前の安全確認義務違反)について
(一) (1)について
原告らは、被告が准看護婦等の資格のない堤に典臣に対する注射の準備をさせたことが違法であると主張するが、本件は損害賠償請求訴訟であるから、原告らの損害との間に因果関係がある被告の注意義務違反があったといえることが必要であるところ、前記二で認定した事実によれば、被告が鍬農に指示して典臣に投与した薬剤はデルマニンC20及びデキサンであって、これを左右するに足りる証拠は存しないのであるから、仮に、被告が准看護婦等の資格のない堤に典臣に対する注射の準備をさせたことが保健婦助産婦看護婦法に違反としても、このことから直ちに、被告に注射前の安全確認義務違反があるとはいえないのであって、原告らの主張は失当である。
(二) (2)の事実については、(一)で述べたとおりであり、原告らの主張は採用しない。
(三) (3)の事実については、前記二で認定したように、本件症状は水虫でないことが明らかであるから、原告らの主張は失当である。
(四) (4)について
前掲の<書証番号略>によれば、デルマニンC20の使用説明書には、「まれにショック症状があらわれることがある」旨の記載があり、デキサンの使用説明書には、「投与に際してはとくに適応、症状を考慮し、他の治療法によって十分に治療効果が期待できる場合には、本剤を使用しないこと」という一般的注意が記載されていることが認められる。
しかしながら、前記三で認定したとおり、典臣の死亡原因は、デキサンに含有されていたHCO―60によるアナフィラキシー型ショックによるものと認められることからして、被告のデルマニンC20の投与については、安全確認義務違反があったということはできない。
また、デキサンの投与については、前記二によれば、本件症状に対する適応として不当であったと断ずることはできず、前掲の<書証番号略>並びに被告本人尋問の結果によれば、本件当時、被告はデキサンにHCO―60が含有されていた事実を知らず、また、デキサンについては皮内テスト等が義務付けられていなかったことが認められることからすると、被告の典臣に対する問診等が不十分であったということはできないというべきである。
したがって、被告の典臣に対するデルマニンC20及びデキサンの投与に際して、被告に安全確認義務違反があったとする原告らの主張は採用できない。
3 (三)(注射中の観察義務違反)について
デルマニンC20及びデキサンの投与に際しては、前記三の1の(二)の(3)で認定したように、患者の状態を十分に観察する必要が被告に求められているが、これは、医師が患者に直接注射すること、医師に注射中は常に患者の側に付き添っていることまで求めたものではなく、患者にショック症状が起こった場合に速やかにこれに対処するために求められるものであると考えられるところ、前記二で認定した被告医院の診察室がワンルームであり、本件ショック発生当時、被告が診察室に在室していた状況、被告が鍬農からの報告を受けて直ちに典臣の寝ていたベッドサイドに駆けつけて、対処した状況に照らすと、被告はつぶさに典臣の状況を観察できる状況にあったかどうかについては疑問はあるものの、これによって、典臣の本件ショックの発見が遅れたとまでいうことはできない。
したがって、原告らの観察義務違反の主張は採用できない。
4 (四)(結果回避義務違反)について
(一) 前掲の<書証番号略>によれば、ショックが発生した場合には、まず、気道確保・換気維持・酸素投与・静脈路確保・循環血液量の維持が行われるべきであるとされ、重症の場合(収縮期血圧六〇mm/Hg以下、皮膚色・蒼白―チアノーゼ等の場合)には、気管内挿管・副腎皮質ホルモン投与等が行われるべきであり、それでも改善がみられない場合には、イノバン等を投与し、それでも血圧維持が困難な場合は、ノルアドレナリンを投与するべきであるとされている。
(二) 本件の場合には、被告は典臣の本件ショックを認めた後、前記二で認定したように、典臣に気道狭窄及び血圧低下は認められなかったため、被告は、看護婦に指示して、典臣に強心剤を投与するとともに、酸素吸入器による酸素投与を行い、点滴による輸液を行うとともに、医師二名の応援を求めたこと、昇圧剤であるボスミンは心停止状態となる直前に投与されたこと、気管切開は心停止後に行ったことが認められる。
原告らは、典臣に本件ショックが出現した後、直ちに、ノルアドレナリン等の昇圧剤を投与し、気管切開をなすべきであったと主張するが、右認定の各事実によれば、本件の場合には、これらの措置をとるべき必要性を見出すことはできないというべきである。
そして、証人濱六郎の証言及び鑑定の結果によれば、本件における被告の処置は、一般開業医の診療水準からして不適切であったとは考えられず、典臣の死亡の結果を回避することは不可能であったとしていることに照らすと、被告に結果回避義務違反があったということはできず、原告らの主張は採用できない。
五そうすると、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法八九条、九三条一項を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官足立昭二 裁判官大原英雄 裁判官横溝邦彦)